昭和期以前における
静岡県の剣道・居合道・杖道に関わる年表

静岡県剣道連盟50周年記念誌、広報紙等から抜粋し、沿革を掲載しています。
注:○主な行事に関する出来事 ●:全国大会等の主な入賞歴
(敬称は省略します)

主な出来事
大正
15
内田良平は、浜松市鴨江に誠道館道場を開き、剣道と力信流居合を指導する。

山本辰男は、清水市横浜町に天武館道場を開く。

大正
13
岡文雄(剣道範士、神道無念流)は、静岡市内幸町に盈進館道場を創設し、同所において柔道家望月稔村井恭一天真正伝香取神道流を広める。

村松久一郎が、県立志太中学(現県立藤枝東高校)の剣道師範となる。

大正
12
小倉孝一(剣道範士、神道無念流)は、静岡市西草深に春風館道場を再建する。

美和勝治郎が、
佐野実業高校(現県立裾野高校)の剣道師範となる。
大正
10
間宮勇太郎、倉田久平は、剣道教士となる。

大正
○5月、三島町立三島商業学校(現県立三島南高校)が創立され、校訓を「一源三流」とする。

美和勝治郎が沼津警察署に配属される。
大正
大長九郎は静岡県警察本部武術教授となり、内山廣吉は巡査教習所、岡田良平は浜松警察署に配属される。

○第一次世界大戦が終結する。

大正
野中虎吉は、静岡市新富町に武誠館道場を創設する。

大正
根岸直次郎は、沼津町立沼津町商業学校(現県立沼津商業高校)に漢文の教員として赴任し剣道師範となる。

○第一次世界大戦が勃発する。

 大正
○「大日本帝国剣道形」が制定される。
大正時代 ○京都武道専門学校卒業生の高橋明は県立浜松中学(現県立浜松北高校岡文雄(剣道範士、神道無念流)は県立静岡中学(現県立静岡高校)、杉山和民(剣道範士)は静岡高校(現静岡大学)に赴任する。

○県立静岡商業学校(現県立静岡商業高校)柔道教師中崎辰九郎は、伯耆流居合を伝える。

明治
44
〇改正師範学校規定、中学校令施行規則が公布され、中学校以上で剣道教育が行わる事となる。

明治
41
 
 大長九郎は警察部剣道教授を兼ねる。

明治
40
小川静衛らは、浜松市利町五社神社境内に演武館道場を創設し、原芝介間宮勇太郎、宮脇徹が師範を務める。

明治
38
○9月、日露戦争がアメリカ大統領シオドア・ルーズベルトが斡旋により、ポーツマス休戦条約を締結し講和する。

明治
37
2月、日露戦争が勃発する。

明治
36
大長九郎は、静岡市富士見横町に武修館道場を創設し、剣道を含め力信流居合の指導を行う。

○門人有志により、浜松市北区平口(現在)に「間宮先生の碑」が建立される。

明治
35
竹本志津馬は、清水市富士見橋通りに養勇館道場を創設する。

○榛原郡立榛原中学校(現県立榛原高校)に剣道場「講武館」が建設され、山岡鉄太郎の「春風館掲示」が掲げられた。

明治
34
○11月、大日本武徳会静岡県支部道場(武徳殿)が、旧駿府城内に巡査教習所道場を兼ねて建設され、服部長賢が初代主任教授となる。

明治
33
○6月、大日本武徳会静岡県支部の発会式が田方郡三島町の三島大社で開催される。

○アメリカ合衆国において、新渡戸稲造著「Bushido-the soul of japan」が出版される。

大長九郎は、柔術、剣道、居合、棒術の総合武術である力信流を修め、静岡県警察本署の柔術師範として岡山県から来静し、その後、剣道教師となる。

明治
32
○11月、明治維新以来の戦没軍人、軍属等を合祀する「静岡県護国神社」が静岡市北番町に創祀される。

明治
30
 
〇3月、錬武館引佐郡尚武会と改め柔道部、剣道部、弓道部を設け剣道部の指導は河合代蔵が行った。

明治
28
○4月、日清戦争は日本側の勝利により終結する。

○大日本武徳会が創設する。

○第1回武徳祭に間宮鉄太郎は、審判兼選手として出場し萩原太郎と対戦する。またこの時に、間宮鉄太郎榊原信が「武術精錬之証」(現在の範士)を授与される。

練武会は、細江町気賀に練武館道場を創設する。

明治
27
○8月、日清戦争が勃発する。

間宮鉄太郎は、引佐郡笠井に建てられた「講武館」笠井道場の師範となり、遠州地方の剣道指導にあたる。

 明治
24
〇9月、「巡査教習所職制及巡査教習所規則」が制定され剣術(剣道)が警察官の初任教養の教習科目として正式採用される。

明治
19
○静岡県巡査教習所が設置される。

○6月、自由民権運動の「静岡事件」が起こり、講武所師範役を務めた湊信八郎が検挙される。

明治
17
●11月、警視庁主催の第3回弥生社撃剣大会に今堀登代太郎(神陰流)が出場し、本番では江原則明(直心影流)、番外では池田吉左衛門と対戦する。

間宮鉄太郎は公務を退職し、浜松、笠井、気賀の警察署、高校の剣道教授を行う。

明治
16
●11月、警視庁主催の第2回向ヶ岡弥生社撃剣大会に、小倉笑一(神道無念流)、長田元義(素空流)、沢能得(神陰流)、今堀登代太郎(神陰流)が出場する。

明治
15
○12月、巡査に帯剣が許可される。

〇10月、静岡警察署の署員の一般教養のための巡査教習所が設けられ、撃剣(剣道)が講習科目のひとつとして義務付けられる。

今堀登代太郎(幕府講武所剣術方、神陰流)は、講武館道場を静岡に開く傍ら、静岡県警察本署の御用掛として撃剣を教授する。
明治
14
 
○川路大警視が「撃剣再興論」を唱え、警察において剣道訓練が開始される。

 
明治
11
 
○伊豆七島が東京府に移管され、現在の静岡県が成立する。 

明治
10
 
○西南の役が勃発し、今井信郎は警視庁警部として従軍する。

○西南の役における警視庁抜刀隊の活躍により、警察官の職務執行に撃剣(剣道)の必要性が再認識される。

井上八郎は、創立された第三五国立銀行(後の静岡銀行)の頭取となる。
 
明治
 
○3月、廃刀令が公布され、撃剣は衰退する。

○4月、足柄県が廃県となり静岡県に編入され、8月に浜松県も廃県となり静岡県に編入されたことから旧駿河・遠江・伊豆にまたがる現在の静岡県が成立する。

明治
 
○東京警視庁が設置され、川路利良大警視が初代警視総監となる。

 
明治
 
今井信郎(京都見回組)は、坂本龍馬殺害等の罪により受刑中のところ恩赦を受け釈放され、来静し、その後初倉村(現島田市)村長となる。

 
明治

○7月廃藩置県の詔書の発布を受け、静岡藩、堀江藩が廃止され、新たに静岡県、堀江県が置かれた。山岡鉄太郎、伊庭軍兵衛、榊原鍵吉、三橋虎蔵は東京に戻る。


○11月静岡県は駿河国域の静岡県と遠江国域の浜松県に分割され、韮山県は足柄県に編入される。
明治
間宮鉄太郎(幕府講武所剣術方、小野派一刀流)は浜松藩勤番頭となり、三方原開拓取締を命ぜられ三方原に入植し、村長等を務める。

明治
○6月、駿河中藩が静岡藩に改称する。(徳川家達の藩知事任命時に「静岡」と新たに地名を定めた)

中条金之助景昭(幕府講武所剣術方教授)、大草喜次郎高重(旧旗本)は、牧之原開拓の傍ら島田市権現原に松風館道場を開き、無刀流を修行し、明治政府高官となった山岡鉄舟と親好を深める。
 
明治

○大政奉還後、徳川家の駿河・遠江70万石(駿河中藩)への移封に伴い徳川家達に従い、講武所関係者である山岡鉄太郎井上八郎、伊庭軍兵衛中条金之助榊原鍵吉、三橋虎蔵、湊新八郎間宮鉄太郎らが来静する。

山岡鉄太郎は駿府にて、西郷隆盛と会見し、勝海舟から託された江戸城無血開城の交渉についての話し合いを行う。

江戸時代 ○幕末に遠州秋葉山寺侍の市橋順蔵は、小野木小弥太(直心影流)に修行し、秋葉流を興し、江戸に出て道場を開く。

○文久2年(1862年)5月、江戸城で行われた武術上覧に、駿府与力の布施権三郎、浜松藩指南番の浅村太兵衛、浜松袋町道場主の峠権左衛門が出場する。

○沼津藩士の次男であった桃井春蔵直正は江戸において二代目桃井春蔵に師事し、嘉永2年(1849年)鏡新明智流の士学館(江戸日本橋茅場町)の四代目を襲名する。

○慶安4年(1651年)7月、二刀流の兵学者であった由比正雪(庵原郡由比町)は、江戸牛込榎町に道場を構えたが、幕府転覆を企てたことにより、駿府城下において自刃する。

難波一刀流開祖難波一刀斎(遠州三倉)は、寛永11年(1634年)9月に行われた吹上御前試合に出場し、芳賀一心斎(備中)と対戦する。


○寛永年間、天然理心流流祖、近藤内蔵助長裕(気賀)が江戸に出て、道場を開く。四代目が近藤勇昌宣(新選組隊長)。

○寛永年間、浅間神社宮司の家に生まれた富士亦四郎吉春は、香取神道流の流れを汲んだ富士浅間流を創始する。

江戸時代以前 ○遠州高天神城主小笠原長忠の弟であった小笠原長治(1570~没年不明)は、上泉信綱、奥山休賀斎らに新陰流を修行し、真新陰流を興し、源信斎と称す。

○室町時代に伊豆大島に生まれた伊藤一刀斉は、伊東にわたり、鐘巻自斉(中条流)について修行し、一刀流を創始する。